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写真:RGG

国鉄時代、最初で最後の本格的流線形電気機関車

EF55

8620形蒸気機関車やユニオン・パシフィック鉄道ビッグボーイなど、常に新しい技術と機構の開発によって精巧な模型化を実現してきたKATOは、この夏いよいよ、日本の鉄道史において唯一無二の存在である本格的流線形電気機関車「EF55」を発売いたします。

 

戦前に生まれ、戦後も復活動態保存機としてイベント列車で長年活躍。

現在はさいたま市の鉄道博物館で大切に展示保存されているEF55は、全世代の鉄道ファンから愛されている名機関車です。

HISTORY

歴史

流線形ブームと丹那トンネルの開通

EF55の誕生には、大きく分けて2つの時代的背景がありました。

1920年代(大正末期~昭和初期)の日本は、関東大震災での東海道本線全線不通という苦難を乗り越え、東海道本線の電化を徐々に進めている最中でした。当時は多くの電気機関車が外国から輸入されていましたが、保守性の問題や日立製作所など国産メーカーの製造能力の向上を受け、1927年に国産初の大形電気機関車EF52が登場しました。その後、このEF52をベースに高速性能や機能向上を図って、旅客列車牽引用電気機関車EF53が誕生。電化区間において特急「富士」・「燕」など東海道本線の優等列車の牽引を中心に活躍しました。さらに、1934年には丹那トンネルが開通。東海道本線の電化区間が東京~沼津まで延伸されました。

 

時を同じくして、海外ではインダストリアルデザイン(工業製品)にも美的意匠が重視されはじめ、世界各国で美しい車両が次々と誕生していました。とりわけ革新的だったのが、空気抵抗の低減と高速化への貢献を実現する「流線形(ストリームライナー)」の登場です。1933年にはドイツでフリーゲンダー・ハンブルガー(DRG Baureihe SVT877)とよばれる電気式気動車が鮮烈なデビューを果たし、世界中の注目を集めました。続けて登場したのは、米国のペンシルバニア鉄道の電気機関車GG 1です。

 

日本へもこの流線形ブームが波及し、C55形蒸気機関車20~40号機や「関西急電」用モハ52系などが次々と製造されました。その中には、南満州鉄道の特別急行「あじあ」号牽引機のパシナ形蒸気機関車も含まれます。

 

このような、日本国内の電気機関車の技術進歩や東海道本線電化区間の延伸、そして世界を席巻した流線形車両の流行というタイミングが重なったことで、国鉄では当時主力であったEF53形電気機関車の最後の3両分の資材を用いて、流線形電気機関車を製造しようという方針が打ち出されたのでした。

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フリーゲンダー・ハンブルガー

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GG1

片方向運転専用の電気機関車

EF55の製造が決定し、技術者たちが手本にしたのはペンシルバニア鉄道のGG 1でした。設計当初は、モデルとした同機のように両運転台付きで、両端が対称の流線形とする計画もありました。しかし、客車と妻部に大きな空間が出来ることによる渦流抵抗への懸念や、将来的には客車後端も含めた列車全体が流線形となるだろうという見込みも相まって、電気機関車本来の持ち味である折り返し運転をあえて犠牲にし、片側(前位)が流線形、後端が切妻の形状とすることになりました。後部主台車も1軸台車付と同形式を採用し、機関車の全長を短くした結果、2CC1という珍しい車軸配置を持つ機関車となったのです。

 

車体は、EF52・53で採用されていたリベット・ボルトを用いた構造ではなく、可能な限り空気抵抗を減らすため全面的に電気溶接を用いて平滑な流線形の車体を実現。前頭部は運転室内全面が緩やかな曲線で構成され、更にその先は2軸の先輪を隠すような、緩やかで丸みを帯びた覆いが施されました。側面も、空気圧縮溜め下まで台車をカバーし、はね上げ可能な10枚のスカートで覆われました。一方後位側は非常時のみを想定し、徹底的に簡素な設計で、制御機器・制動弁・圧力計など最低限度の装備となりました。回送時を考慮し、後年には前灯、尾照灯、手スリなどが設置されました。

豆知識💡

側面には「ペンシルバニア鉄道GG 1」のような模様を付けたいという希望があり、銀色のステンレス薄板の飾り帯が施されることになりました。このような装飾が施された機関車も、国鉄時代にはたいへん珍しい存在でした。

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数奇な運命

1936年にEF55の1号機、2号機、3号機の3両は華々しいデビューを飾りました。3両は全て沼津機関区に配備され、EF53とともに特急「富士」「燕」を中心に、旅客列車や小荷物列車の牽引を担いました。

 太平洋戦争の激化により特急が廃止されてからも、東海道本線での運用は続きましたが、転車台で方向転換を行わなければならない点や下回りメンテナンスの難しさなどが課題となりました。戦後復活した特急「へいわ」の試運転や進駐軍専用列車などで再び活躍の場もあったものの、暖房車を連結する必要がない高性能な汎用機EF58の登場によって1952年に高崎第二機関区へ転属となりました。高崎では急行・普通列車などの牽引を主に担いましたが、その扱いの不便さから程なくして全車が休車となり、2号機・3号機は解体、国分寺の中央鉄道学園の教習用として貸し出された1号機のみが解体を免れることになりました。

 

中央鉄道学園から高崎第二機関区へ返却されたあとも大切に保存され続け、1号機は1978年には国鉄から「価値ある鉄道遺産」として準鉄道記念物に指定されました。

その後、国鉄末期の1986年に大宮工場で本格的な復活整備を実施、25年の時を経て再び車籍復活を果たします。復活時の姿はあえて原形に戻すことはせず、戦後の東海道本線時代に近い形態で復元されました。

翌1987年の国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道へと引き継がれ、高崎運転所に配備されました。「SL&EL奥利根」「EF55奥利根」といった高崎・上越線方面のイベント列車を中心に活躍し、復帰への歓声とともに多くの人々に愛される人気の機関車となりました。

豆知識💡

豆知識!現役時代は「カバ」「ドタ靴」といった名前で呼ばれていたEF55ですが、復活後は人気のアニメキャラクター「ムーミン」に似ているということから、いつしかこの愛称で親しまれるようになりました。

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​歴史の生き証人として

2009年、修理用部品の調達が困難になったことから、同年1月18日の信越本線高崎~横川間で行われたさよなら臨時運転を最後に2度目の引退。車籍を残したまま、高崎車両センターに再び静態保存されていました。2015年、開館10周年を迎えるさいたま市の鉄道博物館の記念大幅リニューアルの一環として、EF55 1号機が同博物館へ新たに迎え入れられることになりました。

戦前に生まれ、90年もの長い歴史を刻みながらも、その親しみやすく特徴的な姿は人の心を惹きつけます。今日に至っても、博物館を訪れたたくさんの人達を出迎えながら、新たなファンを生み続けているのです。

豆知識💡

EF55 1号機は、太平洋戦争中の1945年に機銃掃射を受けたことがあり、運転室内に未だその痕跡を残しています。まさに「歴史の生き証人」といえます。

<参考文献>

『鉄道ピクトリアル』1962年3月号

『とれいん』1986年6月号

東日本旅客鉄道株式会社「鉄道博物館におけるEF55形式電気機関車の展示について」プレスリリース 

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写真は試作品画像加工を施したイメージです。
Developmet

模型化への挑戦

これほど絶大な知名度・人気を誇るEF55ですが、なぜKATOから製品化されていなかったのか。それには、技術的なハードルがありました。開発・設計・金型部門へのインタビューとあわせて、同機関車の特徴とその再現についてご紹介します。

曲線の通過

実物より小さなの曲線半径を走行させることの多い鉄道模型にとって、前頭部ボディ内側に収まっている先輪(先台車)が曲線通過時にボディと干渉してしまうという問題がありました。すっぽりと車輪を覆う前頭部のイメージを崩さず、かつR282というNゲージでスタンダードな曲線での走行を両立させること。これが、同機の模型化における最大の壁でした。

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先輪とボディの間に、いかにしてクリアランスを作り出すか。メカニズムの開発担当者は先台車部分のみでの対策ではどうにもならないと判断し、前側の動力台車枠の首振り支点を最前部に置き、変則的な動作作用を利用して、曲線通過時にボディそのものの姿勢を変化させるという方法を考案しました。下図の通り、通常は台車中心に位置する回転軸を、先台車より前に回転軸を持ってくることにより、先台車のクリアランスを確保しています。

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さらに先台車の方にも加えた工夫として、曲線進入時には台車枠全体を若干後退させることで、クリアランスがより拡大する構造を採用しています。

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特殊な軸配置

先の歴史的背景にもある通り、EF55は従来の電気機関車とは異なり、前頭部が流線形、後部が切妻の非対称で、それに起因する2CC1というユニークな車軸配置を持っています。このため、ボディはすっきりとして見えますが、足まわりは蒸気機関車のように複雑な構造をしています。これらの細かなディテールの再現と、新たな動力機構を実現するには、現象を見ながら細かな調整を繰り返し行う必要がありました。設計者は、先台車・従台車が脱線しないようにするのは特に神経を使ったと言います。

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流線形のボディ

実車同様の平滑で丸みのあるボディ形状を再現することも、金型の技術力が試される重要ポイントです。通常、ボディの金型というのは、上下・前後・左右の6つの入れ子をそれぞれ彫り込み、それらを組み合わせたのちにプラスチック成形を行います。EF55のような流線形で丸みのあるボディは、この金型はめ合わせ具合や、寸法が完全に一致していないと、その境界がよりはっきりと目立ってしまうため、非常に繊細に加工を施していきます。

 また、ナンバープレートや手すりが斜めに組み付く構造となるため、簡単には金型から抜けないという難点もありました。こちらも、設計者や金型の技術者たちが知恵を寄せ合い、新たな金型構造を開発することで実現出来ました。

予想外の課題

模型化が難しい製品であること、その構造や金型の課題点は事前に認識されていましたが、実際にプロジェクトが進む過程で新たに浮き彫りになった問題点もあります。

 例えば、製品の保護性です。台車の回転軸の構造が従来とは異なるため、これまでのパッケージの保護・保持方法では製品保護性の基準が満たせないことが発覚しました。製品保持面の少ない流線形ボディでは、中敷・スペーサーなどの仕様にも様々な検証を行っております。

KATOのEF55は現在、金型製作までが完了した段階です。試作品・製品情報は次項をご覧ください。今後も生産や組立といった工程でも様々な取り組みや挑戦を行ってまいります。

この特設サイトのコンテンツは順次更新予定です。

 

ぜひ、ご期待ください。

REPORT

製品情報・試作品写真

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EF55 高崎運転所

3095  ¥15,180

・昭和61 年(1986)の車籍復帰後、高崎線・信越本線・上越線などで活躍していた頃の形態で製品化
・車体に覆われた先台車を実車同様の外観で再現しつつ、最小通過曲線半径 R282 の走行を実現
・スロットレスモーターの採用で、スムースかつ静粛な走行性を再現
・ヘッドマーク付属(前位側用)。「高崎線開業 120 周年」「奥利根」「ありがとうEF55」「さよならEF55」を付属

(前面開口部から差込式)
・ナンバープレートは「EF55 1」を取付済

・付属品:信号炎管、列車無線アンテナ、重連用アーノルドカプラー、重連用ナックルカプラー、

交換用ナックルカプラー(後位側用)、ヘッドマーク(4 種)

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旧形客車
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写真:RGG
All rights reserved. 1998-2023株式会社カトー / 株式会社関水金属

EF55と共に活躍した
高崎の旧形客車

EF55の復活にあたり、旧形客車の廃車が進む当時、全国各地に残存していた旧形客車の一部を高崎運転所(現ぐんま車両センター)に集結して、イベント列車に使用しました。旧形客車として代表的なスハフ42、オハ47をはじめ、当時としては貴重な存在だった3軸ボギー台車を装備したスエ78も秋田から転配されました。

救援車 スエ78

EF55復活運転時に牽引されていた車両でも特に注目度の高かったスエ78 15は、用途記号の「エ」が示すとおり、災害や鉄道事故時に出動し、復旧資材や工作機械の運搬を行う救援車です。元来この車両は救援車として誕生したわけではありません。ここではその生い立ちを振り返ります。

スエ78 15は、1935年に急行列車用として丸屋根3軸ボギー車で2等車と食堂車の合造車スロシ38010として誕生したことに端を発します。

1941年の称号改正でスロシ38 16に改番。その後、徐々に戦争の影響から1944年には鉄道の食堂車を廃止することとなり、戦時輸送増大のために、調理室を残して食堂と2等座席部分を3等車に戦時改造してマハシ49 21となりました。

戦後、戦災で使用不能となった当車は1947年に“戦災復旧車”オハ77 8として復活。1953年には再びの車両称号規程改正に伴ってオハ78 8に改番されたのち、1954年には郵便荷物車マユニ78 8に改造され、1966年に救援車スエ78 15となりました。

1986年、EF55が復活する際に、同車にも白羽の矢が立ち、秋田貨車区から高崎区に移り、他の旧形客車とともに活躍。当時、3軸ボギー台車を履く貴重な車両として注目を浴びました。

EF55復活運転時には、写真展示や物販などのフリースペースとして利用され、復活運転を盛り上げる役割を担いました。JR化後も唯一車籍を持つ戦災復旧車として初期の高崎地区のイベント用客車として欠かすことのできない存在でした。

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豆知識💡~戦災復旧車~

戦争による戦災で、数多くの電車・客車が破損したままとなっていました。戦後、戦地からの復員や買い出しなど鉄道利用者が増え、多くの客車が必要となりました。しかし全てを新製するためには設備や資材・工作力が不足していたことから、被災した車両の台枠などを利用し、車体など一部のみを新製することで増大する鉄道需要に対応しました。こうして生まれた車両が戦災復旧車と呼ばれ、元となる車両によって形態も様々です。客車の形式としては70番台が付番されたため、70系客車と呼ばれています。

EF55復活運転当時の形態を再現

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3軸台車・スポーク車輪

テールマーク

デッキ

高崎に集結したイベント用客車

高崎に集結されたスハフ42とオハ47は、製造から長く時間が経ち、全国各地での様々な改造・更新が行われ、細部の形態に変化が見られます。旧形客車では、車両ごとに個々の形態となることが多く、高崎に集った車両も、トイレ窓・客扉窓など様々な差異が存在します。

KATOではこの異なる形態の差異を再現。旧形客車ならではの「バラバラ」がお楽しみいただけます。

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豆知識💡KATO単品製品の形態

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様々なイベント列車で活躍

高崎運転所の旧形客車は、EF55牽引列車はもとより、さまざな牽引機による各種イベント列車や臨時列車でも活躍しました。客車ならではの特長を活かして、編成両数を変えたり、他形式と組成されることもありました。

ラインナップ済みの製品も組み合わせて、さまざまな列車をお楽しみください。

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高崎運転所 旧形客車

7両セット10-1805  ¥20,900

●昭和61年(1986)当時の高崎客車区所属(1987年から高崎運転所)の旧形客車で組成されたイベント列車を製品化。列車無線アンテナ・客扉自動鎖錠装置設置前の形態を再現
●本来は救援車であるスエ78の特徴的な外観をはじめ、各車で車番ごとに異なる客扉窓、便所・洗面所窓、サボ受の位置などを作り分け
●行先サボ、号車サボなどを収録したサボシールを付属
●EF55の復活記念列車「GOGO TRAIN」のテールマーク、反射板付属
●付属品:消灯スイッチ用ドライバー、貫通ホロ、交換用ナックルカプラー×4、反射板×3両分、サボシール

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